シニア会アーカイブ

3・ツアー開発に絡む裏話

  これまでは、主に海外観光旅行開始以前の動きについてお話ししてまいりましたが、今回は海外観光旅行が許可された以降のツアー開発企画の動きにつき、その背景にあったものを含め、企画のきっかけとなった事情について述べたいと思います。

  桝 重信    (シニア会元会長)


『韓国への観光開発とよど号ハイジャック事件』

  3年間のハワイ駐在から帰国して2年後、万博開催を目前にして、今度はソウルに転勤する事となり、70年3月末日他方面に転勤する人達と共に、転勤辞令交付が本社で行われる事となりました。交付当日私は朝の便で本社に赴きましたが、そこで聞かされたのが往路上空ですれ違ったB727がハイジャックされたニュース。このハイジャックの対策で本社は大童。このため当日の辞令交付は延期と決定されましたが、よど号がソウルに向かっているとの情報から、急遽私のみ一日も早く赴任するようにと副社長から代行して辞令交付がなされました。営業本部から韓国で赴任に関するのブリフィングを受けた時、日韓路線は大変な赤字、若しこのような状態が続けばいずれ当路線を撤退せざるを得ないので何とか売上を伸ばして欲しいと指示を受けました。

  しかし、この頃日本には韓国を紹介する何物も無く、又それ以前の李承晩時代の反日感情も強かった事から、私自身現地の事情に不安を感じながら赴任しましたが、赴任して初めてその伝統ある建築物や陶磁器などの文化に接触し,日本に知らされていないこの良さを紹介すればきっと観光客が増やせると信じ、まず韓国政府観光局に日本に対し日本からの観光客誘致のためには韓国紹介パンフレットやポスター、及び文化的イベント等の情報提供が必要と説明、同時に韓国の伝統的生活を一目で判るような場所を創造する事も提案、そのためハワイのポリネジアン文化センターを参考するため視察することを勧めました。これが後に韓国民族村の実現に繋がったものと私は信じています。

  一方、私が東京に一時帰国した際、たまたまJAL日本地区で旅行会社の方々が会議を行っている機会を利用して、「韓国の良さと見所」を披露し、旅行業界による視察旅行実施を提案しました。これを受けて帰任後間もなくツアー企画担当の方々約30名が視察のため來韓、私が同伴してソウルを中心とした観光バスによる現地視察を行い、旅行終了時、現地旅行社にツアー実施に当たっての韓国サイドで改善すべき受入問題点を指摘、改善を求めました。この時視察旅行の地上手配を引き受けてくれたのがグローバル旅行社の王会長。この人は元ノースウエスト・ソウル支店販売担当で、私の昔馴染みの人であったため、この視察旅行手配に関し色々と協力を得る事が出来ました。この視察団の来韓が観光旅行の引き金となり、3年後任期を終え帰国する頃は「もうパンクしそうで送客しないで欲しい」と嬉しい悲鳴をあげるほどになり、機種も当初のCV880からジャンボ機に変更、又多数のチャーター便も受け入れるようになりました。
  この様に多数の日本人旅客が韓国に目を向けるきっかけとなった背景には、韓国側が日本人受入に努力された事と、朴大統領が韓国民に対し日本語使用を認めたこと、更に日本人の間によど号ハイジャック事件によって韓国を認識し始めたことがあったためです。


『趣味から生まれた韓国陶磁器の旅』

  私は韓国青磁に興味を持ち、しばしば仁寺洞にある骨董街や美術館に足を運びました。たまたまこの頃、韓国政府は骨董の国外持ち出しを禁止し始めた時で、私が骨董を欲しがっているのを知った韓国骨董協会の会長さんが、「李朝青磁のコピー作りに取り組んでいる柳海剛さんの作品が最もよく再現されているので、若し私が青磁に興味があるのなら美都波デパートに店を出している柳海剛さん本人から買えばよい」と教えられ、早速デパートに赴き海剛さんを訪ねました。海剛さんはデパートの階段踊り場の一隅にショーウインドウを出し、『李朝青磁のコピーを作りました』と表示し本人が一人で作品を売っておられました。

  私はその後何回かデパートを訪問し、先生と親しく会話を交わせるようになり、この先生の初期の時代からの作品を購入し、現在我が家の飾り棚や押入の中に十数点保存しています。この海剛先生は後に韓国政府も認め人間国宝と認定され、日本人の間にも広く知られるようになりました。この私の趣味から、帰国後の86年に私はJALから一時系列の旅行代社に出向しましたが、その時「韓国陶磁器の旅」を企画しました。その結果25人ほどの男女ツアー客を集客、同行して慶州、木浦、ソウルなどの博物館を訪ねましたが、この時利川にある窯に海剛先生を訪ねましたが、残念ながらお昼寝の最中という事でお会いする機会を逸しました。

 又駐在当時、梨花女子大の学長さんとの面識もあった事から、事前に同大学の博物館にある陶磁器を見学する許可を戴き、当日団体が観光バスで乗りつけたところ、この日は大学祭開催の際中に関わらず玄関までバス乗り入れを許可され、ゆっくりと博物館を拝見し、団体客から博物館見学と大学祭を通して女子大生と交流出来たことで大変喜ばれました。

『マツタケツアー開発失敗』

  南大門や東大門にある市場ではシーズンになるとマツタケが安く買うことが出来ました。ちなみに市場で売られていたマツタケは1貫目約8千円と日本では想像できないほど安く、日本に一時帰国した時市場で購入し、家で根元の砂をブラシで落とした上持ち帰り、当時入院中だった父に大変喜ばれたことがありました。一方、マツタケの輸出業者は収穫したその日に航空貨物として日本に輸送して欲しいと毎日空港貨物部に懇願してこられました。しかしマツタケはご存知の通り嵩高く、その上大変軽いため貨物スペースの関係上持ち込まれるマツタケ全部を引き受ける事が出来ませんでした。この安いマツタケに目をつけ、韓国東部海岸の雪岳山(ソウラクサン)付近で多く取れるマツタケを現地で食べ、帰国時にマツタケを購入するツアーを組んだら、と旅行社に提案した事がありますが、暫くして韓国政府はマツタケで外貨獲得することから、一般市場でのマツタケ販売に待ったを掛け市場には出回らなくなったことで、この企画は成立しませんでした。

『マスコミを味方に』

  73年、私は韓国から神戸支店に転勤しましたが,76年月に大阪支店の広報・宣伝担当を命ぜられ、再び大阪に戻ってきました。当時大阪では空港騒音問題で揺れていた大変な時、通常広報関係では社会部との付合いが主でしたが、韓国駐在時代に仁川に空港建設が進み、韓国はこの空港をアジアのハブ空港となることを強調していたことと政府の驚くほど強力な実行力から、私自身不安を感じ、経済部には将来の大阪の経済発展のため、阪神間に国際空港開発の必要性を強調するようにお願いしました。この時騒音問題から神戸に空港誘致に強く反対されたのは時の神戸市長で、その後神戸空港建設を推進されているのを見て驚いています。

  一方旅行に関しては、レジャー担当の記者のみならず、例えば旅行ライターの藤岳彰英さんや司会者浜村淳さんなどと交流を深めることが出来、旅行地のイメージアップを図ることが出来ました。この交流はその後の私自身の販売活動にも大いに役立ちました。その一つは、JALPACの宣伝活動です。ご存知のごとく、JALでは毎年「JALPACの夕べ」を各都市で開催、取材した地方紙が記事に、ローカル放送局が放映した事から、その地区からの海外観光旅行熱を醸成することに役立ちました。一方この間大阪でのアップダンクイズには毎回スチワーデスをつれてテレビ放映に立ち会い、又梅田の街角などで行った鶴瓶のヤンタンなどの録音にも参加しました。

  このようにマスコミとの関係を保つためには、一般販売にも通じる日々の付合いが大事で、若しこちらから取材協力を求めるためにツアーに招待する時なには決してマスコミにその対価を求めてはなりません。その理由はその対価を求めることを前面に出す事は彼らのプライドを傷つける結果となるからです。

『中国ゴルフツアー開発のきっかけとマスコミの力』

  86年の在る日、出向中の私の事務所に、元JTB安土町に在職し、転職して香港の地上手配を行っていた北洞さんが来店し、中国本土の中山県に新しいゴルフ場が出来たとの情報をもたらしました。これを聞いて早速現地を視察し、

珠海と中山温泉ゴルフ場で各1回プレイする2泊3日、16万2千円のツアーを販売して12人を集客、大阪空港から出発しましたが、空港出発時に「日本発初めての人民中国本土へのゴルフツー」ということでNHKが取材、全国ネットで放映され、これを知った週間文春が、国際電話を通して珠海に到着時取材され、3月13日号に4ページにわたって記事が紹介されました。このTV放映と週刊誌の記事のお陰で、その後地方からツアー参加の申し込みやグループの手配依頼を受けました。

私はこのツアーは自社のヒット商品として当分続ける予定でしたが、ある大手旅行社がより安価な商品を企画、雨季を考慮に入れずにツアーを催行したため、参加者が現地で大雨に遭ってゴルフを中止せざるを得なくなり、この事で旅行者の間で不評を買い、その影響を受けわが社のツアーも中止せざるを得なくなりました。
もともと私のプランでは雨季の中山県でのツアーを避け、この季節には他所で催行する予定でしたが、現地事情を考えずにツアーを催行した旅行社の行動が、わが社にダメッジを与えました。


この事からツアーを企画するときは天候や現地事情を十分に調査検討する必要があると考えます。
              
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