シニア会アーカイブ

 今回、私を中心にした旅行業界とのつながりに関する話を数回に亘りご披露させていただくことにしました。この話がどの程度皆様にとって興味があるか自信もございませんが、若し何かの参考となれば幸いと存じます。  
                                          


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航空会社に夢を ・・・・・・  『素敵なユニフォームとの出会い』

 私が航空業界を目指した動機は、戦後の動乱期を経て横浜の駐留米軍関係に在籍中、たまたま当時日比谷にあったフィリッピン航空の前で、格好良いユニフォームを着た同社の職員を見かけ、私もこの様なユニフォームを着用できる外国航空会社に入社したいとの夢を抱いたことです。
 この頃、日本の一般社員のユニフォームは、殆どが紺色でどちらかと云うと野暮ったいスタイルでした。それに比べ外国の航空会社のユニフォームは同じ紺色でもスタイルが良く、このユニフォーム姿に魅力を感じる傾向は単に男性のみならず、女性もスチワーデスのユニフォームに憧れたもので、女性でスチワーデスになれなかった方は東京のはとバスのガイドを目指されました。

『夢の実現に向かって』

この航空会社就職の目的に向かい、その第一歩として53年(昭和28年)当時近鉄航空に勤務していた友人の紹介で、有楽町の三信ビルにあったハワイの2世が経営する旅行会社、ホノルル・トラベル・サービスにアルバイトとして入社、もっぱら渡航手続き関係の仕事を行いました。この頃の渡航手続きは、外貨枠使用許可申請に始まり、パスポートとビザ取得、そして渡航者の出発に当たっては羽田空港への見送りなど、手続きから旅客の出発まで約1ヶ月を要しました。

このホノルル・トラベルで約一年間勤めた頃、エバレット汽船が八重洲口の第一鉄鋼ビルでトラベル・サービスを開設、知人から誘われて転職しました。

入社後暫くして同社旅行部が外人旅行(インバウンド)を取扱う事となり、その担当を私が命じられました。私はこのため、外人旅行に関してのノウハウをJTB本社職員の方から指導を受けました。また、訪日外人のツアーガイドとして、主に現在トラジャル最高顧問をされている岡田信二さんにお願いしました。これが私のFITとの関わりの始まりでした。

訪日外人のツアー販売は、もっぱらエバレット汽船が運んでくる貨客船の乗客で、彼らに対してのアプローチは、横浜港からランチに乗って入港待機中の船に向かい、船上で交渉販売しました。
一方、日本人の航空機利用旅客は殆どが輸出関連のビジネス客で、留学生達は横浜港からアメリカン・プレシデント・ラインなどを利用、海路米国に渡航されていました。当時の航空会社の主力機はストラウトクルーザー(B29の改良機)やDC6Bが使用され、客室クラスは1クラスのみでした。

SASがはじめて北極経由の便を開設したのもこの頃で、この飛行機で東京上空を回遊するジャンケット便に招待され、私自身はじめて空を飛び感激しました。この時ジャンケット便の航空券を発券したのは、後にJALに転職され大阪支店で支店長をされた喜多さんです。

又或る日、羽田空港においてPAAから招待され、ストラウトクルーザーの客室で夕食の接待を受けましたが、この飛行機は一階が客室座席と寝台室,下の階にはラウンジがあり豪華なものでした。 


『憧れのユニフォームに手を通す』

或る日ホノルル・トラベルの支店長だったジミー和田さんから「ノースウエストがカ ウンター職員を募集している」との知らせを受け、早速ノースウエストのオフィス マネジャーだった可児さんを尋ね、入社試験を受け同航空会社に入社するこ ととなりました。これが私の航空会社勤務の第一歩となりました。

可児さんはノースウエストに入社される前はフィリッピン航空のカウンターで勤務され、私はホノルル・トラベルに勤務中に知り合いました。この夢の実現で憧れのユニフォームに手をとうすことになりましたが、ノースウエストのユニフォームは一見色もスタイルも3つボタンの米国空軍ユニフォームのようで格好よく、そのためノースウエスト入社後、通勤に、夜間の通学に、又退社後銀座を散歩する時もこれを着て出かけました。或る日、この格好のためと思われますが、銀座で外人に「オフィサー」と呼びかけられ道を聞かれた事もありました。ちなみに、私のお見合い写真もこのユニフォームを着用したものでした。

2・日本人海外観光ツアーの黎明期

『ノースウエスト航空大阪に転勤』
 ノースウエストに入社して与えられた仕事はもっぱらカウンターでの予約発券業務でした。この頃の運賃計算は現在と違い、もっぱらルートマップ方式による計算で、マップの取り方で何通りにも運賃が出るため、安い運賃を算出することで他社と競いました。後に可児さんは大阪に支店長として転勤され、暫くして私も大阪出身である事から5年間のカウンター業務から今度はセールスマンとして大阪に呼ばれ転勤する事となりました。この可児さんとの繋がりが後にシニア会発足のきっかけとなりました。
 

『女性のための海外渡航教室』

59年頃、日本人海外観光旅行の実現に備えて、JTB安土町の加藤課長の発案で大阪国際ホテルにて「女性のための海外渡航教室」を一泊2日の行程で開くことなり、加藤さんが海外旅行の手続き関係を、又当時英文毎日の記者であった竹村健一氏が「直ぐに使える英語」講座を、ホテルの総支配人はテーブルマナーを、私は米国の旅行についての説明を行いました。この出会いで竹村氏と知り合いとなりました。
 当日はっきりした記憶がありませんが、約20名ほどの受講者が集まり、竹村氏独特の話し振り、ホテル支配人からは天皇一家のテーブルマナーにまつわる裏話などを聞き、出席された方々に喜ばれました。

 


『業界視察団体と阪神百貨店』

 この頃、旅行会社では業界の市場視察旅行団体募集にしのぎを削っていた時で、私も業界新聞に視察旅行を提案するため、視察訪問先を米国文化センターで調べ、同時に当時大阪支店で可児さんの秘書を務めていた須崎夫人の意見などを参考に、プロクターギャンブルを初め米国のショッピングセンター等数社を視察する業界視察ツァーを組みました。
 私の提案を受けた食料醸界通信社が森永や阪神百貨店など食料関係業者に呼びかけ、約20名ほどの集客をされました。ツアーの手続きや添乗は東急航空に依頼し、私自身も途中まで団体に同行し、シアトルでは阪神百貨店の役員とスーパーマーケットを視察しました。この時、役員の方がマーケットのフードコーナーや食堂を見て「これならわが社でも出来る」と言われ、視察旅行から帰国後、これをヒントに同百貨店の地下の食品売場や食堂のレイアウトを改造されました。この方は後に同社の専務に昇格され、この役員との交際が、後に阪神百貨店内一階に阪神航空のJALPACデスクを開くことに繋がりました。


JALPAKとハワイでの結婚式』

  私はKLMからJALに移った池田さんから勧められ、ノースウエストを退職して61年1月にJALに入社しましましたが、入社した年の暮れに大病をわずらい、9ヶ月の間病院生活を強いられました。病気から復職後約3年経った頃、JALでは旅行業界が戦後日数を経ているのにいつまでも海外観光旅行ツアーの実施に踏み込まないため、東京支店が中心となりJALPAK販売に踏み切る事にしました。これを知った旅行会社は、航空会社が我々の分野に進出してきたと反発し、JTBと日通がLOOKを開発、JALPACは一切販売しないと決め、この状態は長く続きました。
  丁度、この動きの最中に私はハワイに転勤となりました。当時日本では「トリスを飲んでハワイに行こう」の宣伝最中で、やっと日本人が制限付きでありながら海外旅行が一般人にも許可された頃で、ホノルル空港でJALPAKの第一陣を出迎え、直ぐにワイキキのホテルに赴きツアーが到着して決められた通り受け入れ手配が出来ているかチェックして回りました。

 その後暫くして東京支店よりFIT旅客(JLKIT)がハワイの教会で結婚式を挙げたいので許可してくれる教会を世話して欲しいと依頼があり、現地の2・3の教会と交渉し許可を得ましたが、恐らくこれが海外で挙式する個人向けツアーの初めとなったことと思います。

『学生を中心にしたグループ』

当時ハワイに支店を持っていたのはJTBNTAの2社と記憶していますが、ある時NTAが学生を中心としたハワイ・ホームステイを企画され、ホームステイを受入れてくれる個人の紹介を申し入れてこられました。そこで、早速日本人商工会やJCを通してホームステイ先を決め、到着後各ステイ先に無事落ち着いたか否かをチェックして回りました。このグループがハワイを発つ時、空港には各ホームステイ先の方々が見送りにこられ、別れを惜しんでおられる光景を目にして大変感激しました。しかし、このグループが到着したその日ワイキキで一人の学生が交通事故に遭われたことが残念です。
 又淀川善隣館の学生グループがハワイにこられたとき、丁度現地はマンゴーの収穫時期で、私の家の裏にマンゴーの大木があり、毎日熟して屋根に落下し、その処置に困っていた最中だったので、マンゴーを袋に詰めワイキキのホテルまで届けたところ、「美味しい」と大変喜ばれた事があります。

第2話につづく